幼い頃から、身体で覚えたことは、意識しなくても何でもなく出来てしまう、頭の中で仕組まれて居るように歯車はちゃんと廻り違和感もない。考え方も然り、本人は勿論普段生活を共にしている家族の中でも何十年も其れで暮らして来たら、其れが常識になり当たり前の法則となっていく。
一歩外に出たら、多くの違う思いで活きている人が其々の道を歩きアチコチに散って行く・・・
全ての思いが他者に伝わるとは誰も思わず、ある種の場面で折り合うところを見付け出しソレで少しは安堵する、部分と部分が重なって後のところまでは互いに介入しない。
独りで産まれオギャー!と叫び、其の時から寂しいから他者と交わる、せめて楽しい時間を過ごしたいと思う。仕事も頑張ったら誰かが喜び自分も終えた喜びに浸る事ができる。今日は何故こんな書き出しに成ってしまったか? 仕事柄、顔を観てその変化にとても興味をもって暮らしているから
何かを意識するエネルギーが要るか要らないかで、顔の疲れというか勢いというものが違って来る
此れは、何が人を疲れさせ老けさせるかを長く考えてきたからだろうか? 整形外科で体の歪みを指摘された、この年に成って、「意識」して生活をするハメ!になった。とっても簡単な事~私にとっては大変なこと~幼い子に箸の持ち方をシッカリ教えたらもうその後は困ることはない。
「意識」してユックリユックリ体が覚えるまでに時間がかかる。はてさて寿命に間に合うかなんて思ったりする。とても寒い日にチャリで傘をさし片手運転、風も吹きふらついた、痛い程の冷たさが指先から芯まで伝わった。意識する事が自分のものに成ってエネルギーの消耗に繋がらない様に
自宅でリハビリを楽しくしようっと! ではでは kou
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