2011年11月10日木曜日

印鑑を押すという事

 此のところ、これに書く余裕が無かったのは実は近隣の不動産のについて私の印鑑が必要で其のことで随分考えさせられて・・少々落ち込んでいたから。
 私は元々田舎生まれで、どの家も玄関に鍵など掛けず近所の家に「ホーイ、おいでるかん?」と言いながら入って行き奥の部屋で一緒にお菓子を頂いたりして育ってきた。人を疑う事を知らないで幼い時期を過ごしたから、基本的にその姿勢が沁みこんでいるのだろう。大人になって、特に此の7年程は世の冷たい風、横風、正面からもオモイッキリ強い風 これに其れと気付かず倒れていた。印鑑を押す事が日本では1番有効なことになってしまうという事実を散々体感してきた・・にも拘らず・又、相手の言葉を簡単に信じた。こういうのを馬鹿というのだろう。
 それについて今、出来る事を懸命にやっている・・本当ならエネルギーを使わなくて済む話。
火曜の卓球で、ベテランの指導員から「どの球も一生懸命打たなくてよい力を抜いて次の球は軽く返すだけに」この言葉は初めてではない。全く、、同じ話、、言われる度に自分の中に在るある意味弱さに通じるものを感じる。
 でも、いつも思うのは専門家は意図をもって素人に説明し、其の意図は専門家の利益にと繋がっている事。この落差は埋まらない。専門家は市民に誠実に動かない様な仕組みなっているのか?
 此方の素人側が、押印した責任は負う、、押したらお仕舞い、と言う事。何かアクションを起こすエネルギーを天秤にかけたら、諦める方が楽という選択をする。
以前は、アクションを起こした、今は其の時間が勿体無い。私は自分の出来る仕事をコツコツと大切に時間を使って行きたい。  
 何だか、書き始めたら愚痴の様な、、  では、又、書きます。   kou

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